幼い頃、幼稚園の絵画コーナーで、星を描く授業があった。当時5歳の私は夜空に輝く星を思い浮かべながら、多くの角を持つ星を描いた。しかし、先生は「星には五つの角しかない。みんなそう描いている」と言い、私を正そうとした。そして「完璧な五角形の星」を一筆で描く方法を教えてくれた。その時、私は初めて疑問を抱いた。「星はなぜ五つの角でなければならないのか?」と。そして同時に、集団に従う安心感を選ぶのか、それとも自分の考えを守り未知の批判と向き合うのかという選択を迫られた。
この小さな出来事が、「選択」とは何かを考えるきっかけとなった。現代社会においては情報が溢れ、多くの選択肢が提示されているように見える。あらゆるニュース、流行、戦争の理由、権威が掲げる「真実」などが、私たちの行動や思考を絶えず導いている。しかし、それらの選択肢は本当に自分の意思で選んだものなのか。それとも、知らぬ間に集団心理に流されているだけなのか。集団に従い、安心感を得るのか。それとも自分の考えを守り、集団の意志による未知の批判を受け入れる恐怖と向き合うのか。山を見るとき、あなたは山の外にいる。この問題について観察し、考え始めた瞬間、すでにあなたは集団の奔流から抜け出している。
エーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』で述べたように、「自由とは選択することを意味し、選択した結果を引き受けることを意味する」。人は時としてその自由を恐れ、安定や安心を求めて集団心理に依存してしまう。既定のルールや基準によって押し進められる共通の流れの中で、私たちは不安、焦り、恐怖に包まれている。そして、安全な避難所を求めて、集団的な主流意見に依存することを選びがちである。
「天の蒼蒼」は、果たして私たちが見ているように純粋で不変のものなのだろうか?個人が、この集団から生じる無形の力に支配され、巻き込まれる状態からどのように抜け出せるのか?
『荘子・大宗師』曰く:
「一たびその形を成すを受けてより、亡びずして尽くるを待つ。物と相刃相靡し、その行は馳するが如くにして、これを止むること能わざるは、亦悲しからずや!」
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武林書畫院
路 雨嘉、蘇 皓月、魏 尼斯、武林山人、袁 藝文、文乾、阿幻、遊 如雪、于 婧、彭 庭華、喜多 マイ
五歲的時候,我在課余時間進入了幼兒園的繪畫角。第一節課,老師讓我畫星星。於是我拿到白紙,為了把自己平時觀察到的在夜空中光芒閃爍的星星表現出來,我在那張紙上畫了一圈有很多角的星星。老師看見後馬上試圖糾正我,她說星星只有五個角,大家都這樣畫,我也應該畫五角星才對。然後她責怪我浪費紙,重新給我一張白紙教我如何用一根連續的線條畫出一顆令她感到驕傲的完美的五角星。
當時幼小的心靈遭受了這樣的小衝擊,我充滿疑惑,隨即開始思考:星星為什麼只能有五個角?它們一圈的光芒為什麼只能用五個角去表達?也是在那裏,我開始面臨選擇。是選擇服從集體從而獲得所謂的安全感,還是保持自己的想法去接受來自集體意志所批判的未知的恐懼。
世情萬變,信息流溢。在碎片化資訊快速流動的當今社會,人們的選擇似乎變得更多。每一條新聞、每一條推送、每一個潮流、每一個戰爭的理由、每一個權威的真理等,無時無刻都在引導著我們的行動和思維。然而,這些選擇是深深自發省察過,還只是集體意志下的個人盲從?我們是否早已經在不知不覺中喪失了獨立判斷的思考能力?看見山時,你在山之外。當你開始觀照和思考這個問題時,你已經自集體洪流中脫出。
正如弗羅姆在《逃避自由》中所提到的:「人們害怕真正的自由,因為自由意味著選擇,也意味著承擔後果。」在這個被既定的規則和標準所裹挾而推動著的共業之信息網中,我們被不安、焦慮和恐懼所包圍,從而選擇依附於集體性的主流觀點以尋求安全的庇護所。
「天之蒼蒼」真如我們所見那般純然不變嗎?個體如何從這種來自集體的無形力量所控制和裹挾中跳脫出來?《莊子·大宗師》:「一受其成形,不亡以待盡。與物相刃相靡,其行盡如馳而莫之能止,不亦悲乎!」
特別鳴謝:
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